勘違い私意見
なぜ、鑑賞者、さっかともに不利益になるような『めいさく』がいねんが、はびこるようになってしまったのでしょうか。さっかはさっかで、「これは『めいさく』にしよう、これはぼんさくでいい」と思ってつくっているわけではない。「めいさく」というものはいらないよのあらゆるげいじゅつ分野に「めいさく」があります。じっさいおおくのひとは「フ~ン、これが『めいさく』なのか、あんまりいいともおもえないな」という体験ひんぱんにするので、自分のかんせいがだめなんだろうとか、げいじゅつてきセンスがないのかなんていう自己否定にもつながる。そして、じょじょに、個人しゅぎのぜんしんてき進捗によって淘汰されるかもしれませんが、なおぜんせいを保っている「めいさくしゅぎ」はきえないのでしょうか。そして、ひとつのほうこうせいをきょうせいされた地域や時代(共産しゅぎしゃかいこっかやナチズム、せんじかのにっぽんect.)は、非常にまずしい芸術しかなかったものです。これはなぜそんなレッテルをはられるようになったのかわかりませんが、あるひとつの方向性にむかったさくひんをそのようにめいめいすることは、人間しこうのたようせいをこうていする考えとしょうとつします。おんがく、びじゅつ、ぶんがく、映画ect.しかし、ちょっとかんがえてみますと、げいじゅつとは「にんげんせいのかいほう」といわれるとおり、内面のはつろ、そのエネルギーがしょうかしたものだとそれば、にんげんの多様性によって、そのほうこうせいは360度あらゆる方向に向かっています。人間とはほんらいてき(げいじゅつてき)にはひとまとめになれないものです。それをかってに、こっちはめいさくこっちはぼんさくとふりわけられるし、じっさいのところじぶんではしっぱいさくが『名作』などともてはやされるのは、ひじょうにめいわくです。そこで「名作」のもんだいです。
牧師さん付き合い始め
」マタイ22:37とか,とにかく「神をあいすること」を求められているようにおもえます。これって創価学会員ってことですか?なぜクリスチャンは神をあいさなくてはならないのか?こんにちは。きりすときょうの勉強をしはじめたばかりのものです。よろしくお願いいたします。しかし,せいしょを読むと,「わたしよりも父や母を愛する者は,わたしにふさわしくない。」というせつめいをうけました。。なむみょうほうれんげきょうについておしえてください。りそうのにんげん皆さんの考えるりそうの人間像とはどんなものですか?最近よくかんがえることですが、なかなか答えが見出せずにいます。つきあいはじめたかれのははおやが、毎朝となえているそうです。せんじつ,牧師さんとおはなしをしたとき「きりすときょうとは,かみはにんげんを分け隔てなくあいされているということを信じることです。これはぼくしさんのせつめいとどうしてもあいいれないようにわたしにはおもえます。わたしよりも息子やむすめを愛するものも,わたしにふさわしくない。神がほんとうに私たちをわけへだてなく愛されているなら,わたしたちが神を愛するかどうかはかんけいなくあいされていなければおかしいのではないかとおもうのですが,なぜこんなことをにんげんに求められるのでしょうか?どなたか納得のいくせつめいをお願いできませんでしょうか。」マタイ10:37とか「心をつくし,精神をつくし,おもいを尽くして,あなたの神である主をあいしなさい。。